×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
あの日、私は午前2時近くまで起きていて民主党の議席を確認していた。最初の印象よりも自民の議席が伸びたのは腹立たしかったが、民主党の300議席超には安心したという思いだった。直前にマスゴミがほめごろし作戦を展開していたので投票をやめたり、やっぱ自民に入れようかという人が出てくるのではないかと不安だった。
辛勝になるのではないかと予測していただけにハッキリとした勝利は今後の展開をやりやすくするのではないかと思えた。既に多くの人が書いているのだが、政権交代が起こっても前カルト政権もマスゴミも意識が変わっていない。相変わらずのカルト政権がいて談合があって、天下りがあってというつもりでマスゴミも毎日のニュースを作っている。
マスゴミは、今後どうなるだろうか。新政権ができたからといって「食える」わけではないので今後もスキャンダル中心の記事が踊ることだろう。できれば、民主党政権がへまをすることを望んでいることだろう。その方が売れるからだ。国民を進歩的にリードしたり、難しいことを簡単に解説したりという面倒なことはやらず、ひたすらお手軽に走るだろう。もともと「頭」が無いのでそれしかできないのだ。行き着く先は、テレビ局、ラジオ局、新聞社の倒産かもしれない。必要な情報を提供しない、ウソもつくでは相手にする理由が見つからないのだ。
民主党の今後はというと茨の道だろうと思う。なにしろ、普通は政権を持つ側の味方のはずのマスゴミが前のカルト政権があまりにもこの犬たちを飼い慣らしたために「野生化」して自動運動を始めているからだ。時の権力の批判をすることがマスコミの仕事ではあるのだが、この国ではとっくの昔にその使命は終わっている。それは、もしかするとこの国の不幸な生い立ちによるものかもしれない。
マスゴミに努める人間たちも一人一人は、そんなに極悪な人間ではなかろうと思う。誰もが「身を立て名を上げやよ励めよ」で成功してきたものと思う。彼らには、会社がゴールなのだ。そこで一生生きて行くためにウソも書く。売れるものなら何でも書く。権力や暴力団に襲われるようなことは書かないのだ。民主党をおかずに記事を書くことはたやすい。針小棒大に書くことで売れる。新人議員のスキャンダルでもつかめば、これはおいしい。そして、カルト政権が蘇ってもまた、それはそれでおいしい。社員が食っていける程度の記事でいいわけだ。裁判沙汰や犯罪に巻き込まれそうになるのは極力避けるという方針だ。
私のアドバイスとしては、民主党は黙々と善行を積むことだけだろう。そして、できれば自分たちの考えを伝えるメディアを持つことだ。既存のマスゴミは役に立たない。出演者も含めて疑ってかからなければならない程に劣化しているからだ。今度は、政権側なので放送網を持つことだって可能になるのではないか。308という支持は、とにかく民主党にやってみろということではないかと思う。そこには、マスゴミがウソばっかり書くので政策が実行できないなどという甘えは許されない。マスゴミが役に立たないのであれば、国営放送を作ることまでして欲しいと思う。
年金詐欺の解決だけでも大きいと思うが、その他の公約も実行できれば、今後も支持は広がるのではないか。そして、やればやるほどに頭脳の欠如が明らかになってくるのではないかと思う。そうなると私の主張である大学を自由化せい、という声も聞こえてくるかもしれない。会社に就職することがゴールでは無いように、大学を卒業することが「資格」ではないのだ。学問に一つのゴールがあるとすれば理解することなのだが、卒業程度ではとても理解しているとは言えない。
しかし、戦後、自民党という詐欺システムが誕生すると、自分たちは理解せずに各省庁の公務員に仕事を丸投げした。自分は無能でも公務員がやってくれるというシステムをこの数十年間作ってきたわけだ。それでも、戦後すぐは自民党にも優秀な人材がいた。自らも深い知識を有するという意味だ。わかって支持していた時代は良かったのだが、さすがにこの十数年間は、アホな先生が大量に発生した。結果として、公務員は、自分たちの幸福を優先した。国家など二の次だったのだ。これでは、まともな国家とは言えない。さすがの狂信的な自民党支持者も見限った。これが、308の真相ではなかったか。
辛勝になるのではないかと予測していただけにハッキリとした勝利は今後の展開をやりやすくするのではないかと思えた。既に多くの人が書いているのだが、政権交代が起こっても前カルト政権もマスゴミも意識が変わっていない。相変わらずのカルト政権がいて談合があって、天下りがあってというつもりでマスゴミも毎日のニュースを作っている。
マスゴミは、今後どうなるだろうか。新政権ができたからといって「食える」わけではないので今後もスキャンダル中心の記事が踊ることだろう。できれば、民主党政権がへまをすることを望んでいることだろう。その方が売れるからだ。国民を進歩的にリードしたり、難しいことを簡単に解説したりという面倒なことはやらず、ひたすらお手軽に走るだろう。もともと「頭」が無いのでそれしかできないのだ。行き着く先は、テレビ局、ラジオ局、新聞社の倒産かもしれない。必要な情報を提供しない、ウソもつくでは相手にする理由が見つからないのだ。
民主党の今後はというと茨の道だろうと思う。なにしろ、普通は政権を持つ側の味方のはずのマスゴミが前のカルト政権があまりにもこの犬たちを飼い慣らしたために「野生化」して自動運動を始めているからだ。時の権力の批判をすることがマスコミの仕事ではあるのだが、この国ではとっくの昔にその使命は終わっている。それは、もしかするとこの国の不幸な生い立ちによるものかもしれない。
マスゴミに努める人間たちも一人一人は、そんなに極悪な人間ではなかろうと思う。誰もが「身を立て名を上げやよ励めよ」で成功してきたものと思う。彼らには、会社がゴールなのだ。そこで一生生きて行くためにウソも書く。売れるものなら何でも書く。権力や暴力団に襲われるようなことは書かないのだ。民主党をおかずに記事を書くことはたやすい。針小棒大に書くことで売れる。新人議員のスキャンダルでもつかめば、これはおいしい。そして、カルト政権が蘇ってもまた、それはそれでおいしい。社員が食っていける程度の記事でいいわけだ。裁判沙汰や犯罪に巻き込まれそうになるのは極力避けるという方針だ。
私のアドバイスとしては、民主党は黙々と善行を積むことだけだろう。そして、できれば自分たちの考えを伝えるメディアを持つことだ。既存のマスゴミは役に立たない。出演者も含めて疑ってかからなければならない程に劣化しているからだ。今度は、政権側なので放送網を持つことだって可能になるのではないか。308という支持は、とにかく民主党にやってみろということではないかと思う。そこには、マスゴミがウソばっかり書くので政策が実行できないなどという甘えは許されない。マスゴミが役に立たないのであれば、国営放送を作ることまでして欲しいと思う。
年金詐欺の解決だけでも大きいと思うが、その他の公約も実行できれば、今後も支持は広がるのではないか。そして、やればやるほどに頭脳の欠如が明らかになってくるのではないかと思う。そうなると私の主張である大学を自由化せい、という声も聞こえてくるかもしれない。会社に就職することがゴールでは無いように、大学を卒業することが「資格」ではないのだ。学問に一つのゴールがあるとすれば理解することなのだが、卒業程度ではとても理解しているとは言えない。
しかし、戦後、自民党という詐欺システムが誕生すると、自分たちは理解せずに各省庁の公務員に仕事を丸投げした。自分は無能でも公務員がやってくれるというシステムをこの数十年間作ってきたわけだ。それでも、戦後すぐは自民党にも優秀な人材がいた。自らも深い知識を有するという意味だ。わかって支持していた時代は良かったのだが、さすがにこの十数年間は、アホな先生が大量に発生した。結果として、公務員は、自分たちの幸福を優先した。国家など二の次だったのだ。これでは、まともな国家とは言えない。さすがの狂信的な自民党支持者も見限った。これが、308の真相ではなかったか。
PR
カルト政権の最終章は、マスゴミを使って民主党をほめごろすことか。週末から30日まで、「300議席を超す勢い」とやるつもりなのだろう。実際にこれをやって野党つぶしに成功したこともあるようだ。しかし、そこまで国民はバカだろうか。60年間もマスゴミと自民党にダマされ続けたのだ、もうそろそろ目を覚まさないといけない。
このままでもいいではないか、としてこれまで通りで行くとして果たしてこの国は持つのだろうか。今後は常にそうなると思うが、不安だがやってみるということを繰り返す他ないことを受け入れるべきだろう。問題が生ずれば、他国の例を参考にしてでも「改善」できるような国家にしなければならない。覚醒剤使用の罪をどれだけ厳罰にしても犯罪は減らない。むしろ、厚生施設を充実させるべきだ。「先進国」のアメリカなどに学べばいいのではないか。そんなことも、この国の現政府には不可能なのだ。
大学受験浪人を放置するのも当たり前のようだが、これはおかしなことだと思う。大学に合格するだけのために時間をつぶすことは1日でも惜しいと考えられないのか。まず、浪人の実態を把握して、一刻も早く浪人ゼロ社会にすべきだ。大学を目指していて、どの大学にも合格できなかった場合には、罰として「希望通りの大学、学部、学科で勉強してもらう」とすればどうか。その代わり、目指していた学問で何らかの成果をあげてもらわなければならない。罰というのは、学問をするということ自体が半端なことではない、ということを意味する。
仮に成果が出ないとしても、意味がある。無駄な時間を過ごすことなく進路を自覚的に選択できる。別の専門的な知識を得たければそちらに変更すればいいだけのことだし、実業に目覚めたならそれに打ち込んでもらえればいいだけのことだ。芸術でもスポーツでもかまわないだろう。個人にとっても、国家にとっても有意義な人生選択がなされるに違いない。
国民一人一人が国家を育てるという観点から今後は、判断することが求められると思う。これまででもそうだったが、なぜか為政者は絶対的に正しいかのような判断がなされていた。これは、戦前の発想にもつながるもので恐るべき思考停止だ。それだけ、国民の生活が苦しいということでもあると思う。政治家になったのなら、政治家はちゃんとしてくれよということなのだ。しかし、政治といういうか国家のあり方というのは、それではうまく行かないことがようやくわかったということだ。
生活が忙しくとも、常に政治家、政治を監視していないとどんどん自分たちの目線からは遠い存在になり、国民は奴隷にされてしまうということだ。他の国々では当然、そのことがわかっていて曲がりなりにもうまくやってきたのだと思う。私も無い知恵をしぼりつつ、この国で生きていきたいし、できることならば良く変わることを見届けてから死にたいと思うようになった。大学が自由化されたら、私はこれからでも勉強してみたいと思う。すべては、「良くする」ためだ。個人のやる気が大きな勢力になれば、この国は良い方向に大化けすると思っている。
このままでもいいではないか、としてこれまで通りで行くとして果たしてこの国は持つのだろうか。今後は常にそうなると思うが、不安だがやってみるということを繰り返す他ないことを受け入れるべきだろう。問題が生ずれば、他国の例を参考にしてでも「改善」できるような国家にしなければならない。覚醒剤使用の罪をどれだけ厳罰にしても犯罪は減らない。むしろ、厚生施設を充実させるべきだ。「先進国」のアメリカなどに学べばいいのではないか。そんなことも、この国の現政府には不可能なのだ。
大学受験浪人を放置するのも当たり前のようだが、これはおかしなことだと思う。大学に合格するだけのために時間をつぶすことは1日でも惜しいと考えられないのか。まず、浪人の実態を把握して、一刻も早く浪人ゼロ社会にすべきだ。大学を目指していて、どの大学にも合格できなかった場合には、罰として「希望通りの大学、学部、学科で勉強してもらう」とすればどうか。その代わり、目指していた学問で何らかの成果をあげてもらわなければならない。罰というのは、学問をするということ自体が半端なことではない、ということを意味する。
仮に成果が出ないとしても、意味がある。無駄な時間を過ごすことなく進路を自覚的に選択できる。別の専門的な知識を得たければそちらに変更すればいいだけのことだし、実業に目覚めたならそれに打ち込んでもらえればいいだけのことだ。芸術でもスポーツでもかまわないだろう。個人にとっても、国家にとっても有意義な人生選択がなされるに違いない。
国民一人一人が国家を育てるという観点から今後は、判断することが求められると思う。これまででもそうだったが、なぜか為政者は絶対的に正しいかのような判断がなされていた。これは、戦前の発想にもつながるもので恐るべき思考停止だ。それだけ、国民の生活が苦しいということでもあると思う。政治家になったのなら、政治家はちゃんとしてくれよということなのだ。しかし、政治といういうか国家のあり方というのは、それではうまく行かないことがようやくわかったということだ。
生活が忙しくとも、常に政治家、政治を監視していないとどんどん自分たちの目線からは遠い存在になり、国民は奴隷にされてしまうということだ。他の国々では当然、そのことがわかっていて曲がりなりにもうまくやってきたのだと思う。私も無い知恵をしぼりつつ、この国で生きていきたいし、できることならば良く変わることを見届けてから死にたいと思うようになった。大学が自由化されたら、私はこれからでも勉強してみたいと思う。すべては、「良くする」ためだ。個人のやる気が大きな勢力になれば、この国は良い方向に大化けすると思っている。
決算処理をやっていて思ったのは、なんとこの国の税金処理はわかりにくいことかということ。すべては、国税庁の思うように作っているのでわかりにくいのだと思った。連中は、それしか見ていないのでいとも簡単にやるようだが。しかし、戦後数十年、自民党のアホ先生たちは、公務員に頼り切ってしくみを変えようとしなかった結果が今なのだろうと思う。法律にしても読んでもわからないようなものでは持つ意味がないのだ。新政権では、ぜひ、わかりやすい仕組みを作る作業を進めて欲しい。私は、これまで通り、菅直人にメールを送り続けるだろう。
今、何を思ったか高校時代の数学参考書を持ち出してパラパラ見ている。こうやれば、合格できたのかなと思いつつ見てみるとそれなりに理解できる。私も高校の三年間、遊んでいたわけではなく、それなりに勉強はしていた。参考書売り場だけではなく、専門書の売り場にもよく通った。方向とバランスを間違ってしまったためにクラスメートには置いていかれてしまって今があるのだが・・・・。今でも受験勉強としては敗北したのだが、「勉強」としてはそれなりに意味があったと思っている。
なぜ私が受験勉強の方法を間違ったのかといえば、「楽しかったから」というのが本当のところだ。誰もが勉強を好きになるとは限らないのに私は、昔から好きだった。ただ一つ、学校の勉強はつまらないので好きではなかったということだ。確かにこれでは、この国の受験体制には生き残れない。もっとも、高校受験までは私も「合わせることができた」ようだ。大学受験では、5教科7科目という圧倒的な量がネックだったかもしれない。この一つ一つに「考えて」対応していたら、とても3年全部使っても時間が無いだろう。条件は誰も同じなので時間不足は問題にはならないかもしれないが。むしろ、時間をかけて有利なはずの「多浪生」がそれほど有利でもなかったのはなぜだろうか。
私が高校時代から浪人時代にかけてやろうとしたことは、本当の勉強だった。私が使った受験参考書にも「受験数学」という特別な学問があるわけではなく、「理解する」ことが正しいことだとあった。とにかく、物理にせよ化学にせよ理解することを心がけた。それが、茨の道であることは言を待たないが、私には苦ではなかった。高校、大学というのは、そういうふうな勉強をするところだと思っていたからだ。
さすがの私も、高校3年になってからは受験体制に合わせて行くことも覚えたと思う。今でも思い出すのだが、少なくとも2浪までは受験に合わせて「学習」したと思う。ただ、それでは意欲が続かないこと、覚えきれないことに気がついた。3浪からは、新規まき直しであるかのように今までスキップしていたようなことを理論的に理解しようと努めた。勉強とは、基本的にはそれでいいのだが、「受験」となるとそれでは合格は無理なのだ。特に大学受験は資格試験ではなく競争試験なのでもっと無理なのだ。結局、4浪しても大学に合格することはなかった。
私の場合、この大学には受かったが、こちらには落ちたということではない。受験した大学、すべてに落ちたのであった。なかなか表現が難しいのだが、問題が解けなかったということが直接の敗因だが、興味も無かったということも大きかった。大学受験をやっていながら、徐々にではあるが、興味を失っていく自分を感じていた。私を嫌う人間は、ここを指摘して、自分の能力が無いことを言い訳していると見るようだ。たぶん、そういう人は「大卒」が唯一の勲章である人生なのだろうと思う。企業に行っても学ぶことなく、ただ、「大卒」だからと優遇されて生きているのだろうと思う。そして、この国を破壊してきたのではなかったか。
私の浪人経験を通じてわかったことは、受験勉強の意味と本来の学問のあり方だった。気がついたのは私だけではないだろうが、この国には別の「学問体系」がある。考えないで反応する学問だ。そうしたことに最も堪能で優秀なのが、公務員になるような人格を持つ人間だろう。自衛隊から警察、教師にわたり省庁で巣くう人間も含まれる。そして、それらを監視しなければならない立場であった、自民党のアホ先生たちは、あろうことか彼らにおんぶにだっこしてしまった。国が衰退しないわけがないだろう。すべてのことが、考えずに反応で決まる。マシな例では、「前例」により決められる。
世界は、この国だけではなく常に進歩している。それが、この国では時間が止まったかのように旧態依然のシステムで動いているのだ。社会も息苦しく、おかしくなるのが当然だろう。確かに、60数年前の戦争は大変だったと思う。そして、平和で安定した世の中であろうとしたことも理解できる。今の自民党のアホ先生よりもずっと前の世代の人、戦争を体験してきたような人々は、そのことをよくわかっていて、ひたすら善行を積んできたのだった。問題は、それ以降の努力せずに「なった」連中だろうと思う。
素朴に考えれば、選挙に出て当選することも難しいと思うのだが、そういう苦労も無く当選すれば、次にやることと言えばいかにずるをやるか、ということしかないだろう。何かをやるにしても、能力も無いのでやりようがないからだ。官僚という名の公務員にやってもらえば無能でも時間は過ぎて行くわけだ。公務員もバカではないので自己の有利なようにしくみを作るだろう。そうしたことが積み重なり、今のような矛盾だらけで悪い所だらけの世の中が完成してしまった。まさに、完成に等しいほどひどい国になったと思う。
もちろん、私の論点はそこにある。大学を資格取得機関にしてしまったために人の劣化が始まったという説だ。考えなくても資格が得られるのだから、劣化が始まるのは当然だと思うが、本人たちはそうは思っていないだろう。それこそ、「悔しかったら、合格してみろ」だろう。だが、東大へ行くような人間と中学を卒業しただけの人間とどれだけ「実力」が違うだろうか。私は、さほど違わないという意見だ。単に、問題に対する反応時間の差があるだけであり、人間に対する評価の決定的なものにはならないと思っている。
30歳でプログラミングを始めた私にとって、むしろ大卒でありながら、コンピュータも触れない、理解できない人間が存在する方が驚きなのだ。私が「やる気」さえあれば、誰にでも学問はできるとする所以だ。つまり、大学入試に通らない連中は、学力が低く、大学に来ても用がないというような説は完全な誤りではないかということだ。高度な学問といえどもたかだか人間の頭で考えなければどうにもならないものだ。わかりやすい解説とそうでない解説はあるだろうが、理解できないというようなものではないのだ。
事務処理能力と言えばいいのだろうか。要するに税務署の人間がわかりにくい諸表を処理するありさまを想像して欲しい。これを処理する能力と時間をかけて問題を考え解決して行く能力とは別物と考えるべきだと私は思っている。しかし、大学入試というものは一緒くたに扱っている。大学を自由に誰でも行ける研究機関にしない限り、競争が激化するだけだからだ。できないことを無理矢理やっているのが今の大学受験だ。
別に民主党がそんなことを言っているわけではないので、政権交代があったとしても、大学は自由化されないだろうと思う。しかし、時の流れと共にいっこうに改革は進まないことが誰の目にも明らかになってくるだろう。問題に対する「反応のしかた」しか学ばなかった者が現実の問題に対処できるはずがないだろう。これは、東大を卒業しようが個人の意識の問題なのでどうにもならない。むしろ、今後はいかに考えるようにするかを学びながら人を育てる教育をしていくか、ということだろう。
ここで政権交代があって、民主党を中心とする政権ができてもいっこうに暮らしが良くなったと思えなかったら、まず、この国の頭脳から変えていく必要がある。本来ならば、今すぐやるべきなのだが、誰もが、よもや大学がおかしいとは思っていないので変えようがないわけだ。たかだか人間がのやることだ、誰かが天才的で誰かがさっぱり能なしということはない。正解は、誰もがチョボチョボで大きな違いは無いということだと私は思っている。そのことを証明するためにも大学は、高校卒業程度で誰でも行けるし、社会に出た人でもいつでも戻れるようにする。そして、大学は資格を一切出さないことだ。
民主党中心の政権は、そのことを実現するために法律を1本作るだけでスタートできる。「大学は、高校を卒業あるいは、卒業程度の学力を有する者の入学を拒んではいけない。」という法律を作るだけだ。大学は、インターネットを活用してでも講義が聞けるように環境を用意できるようにすることだ。なぜかというと、今この国はそれほど病んでいるからだ。誰もが驚くような変化を自らやらなければ未来が無いのだ。
今、何を思ったか高校時代の数学参考書を持ち出してパラパラ見ている。こうやれば、合格できたのかなと思いつつ見てみるとそれなりに理解できる。私も高校の三年間、遊んでいたわけではなく、それなりに勉強はしていた。参考書売り場だけではなく、専門書の売り場にもよく通った。方向とバランスを間違ってしまったためにクラスメートには置いていかれてしまって今があるのだが・・・・。今でも受験勉強としては敗北したのだが、「勉強」としてはそれなりに意味があったと思っている。
なぜ私が受験勉強の方法を間違ったのかといえば、「楽しかったから」というのが本当のところだ。誰もが勉強を好きになるとは限らないのに私は、昔から好きだった。ただ一つ、学校の勉強はつまらないので好きではなかったということだ。確かにこれでは、この国の受験体制には生き残れない。もっとも、高校受験までは私も「合わせることができた」ようだ。大学受験では、5教科7科目という圧倒的な量がネックだったかもしれない。この一つ一つに「考えて」対応していたら、とても3年全部使っても時間が無いだろう。条件は誰も同じなので時間不足は問題にはならないかもしれないが。むしろ、時間をかけて有利なはずの「多浪生」がそれほど有利でもなかったのはなぜだろうか。
私が高校時代から浪人時代にかけてやろうとしたことは、本当の勉強だった。私が使った受験参考書にも「受験数学」という特別な学問があるわけではなく、「理解する」ことが正しいことだとあった。とにかく、物理にせよ化学にせよ理解することを心がけた。それが、茨の道であることは言を待たないが、私には苦ではなかった。高校、大学というのは、そういうふうな勉強をするところだと思っていたからだ。
さすがの私も、高校3年になってからは受験体制に合わせて行くことも覚えたと思う。今でも思い出すのだが、少なくとも2浪までは受験に合わせて「学習」したと思う。ただ、それでは意欲が続かないこと、覚えきれないことに気がついた。3浪からは、新規まき直しであるかのように今までスキップしていたようなことを理論的に理解しようと努めた。勉強とは、基本的にはそれでいいのだが、「受験」となるとそれでは合格は無理なのだ。特に大学受験は資格試験ではなく競争試験なのでもっと無理なのだ。結局、4浪しても大学に合格することはなかった。
私の場合、この大学には受かったが、こちらには落ちたということではない。受験した大学、すべてに落ちたのであった。なかなか表現が難しいのだが、問題が解けなかったということが直接の敗因だが、興味も無かったということも大きかった。大学受験をやっていながら、徐々にではあるが、興味を失っていく自分を感じていた。私を嫌う人間は、ここを指摘して、自分の能力が無いことを言い訳していると見るようだ。たぶん、そういう人は「大卒」が唯一の勲章である人生なのだろうと思う。企業に行っても学ぶことなく、ただ、「大卒」だからと優遇されて生きているのだろうと思う。そして、この国を破壊してきたのではなかったか。
私の浪人経験を通じてわかったことは、受験勉強の意味と本来の学問のあり方だった。気がついたのは私だけではないだろうが、この国には別の「学問体系」がある。考えないで反応する学問だ。そうしたことに最も堪能で優秀なのが、公務員になるような人格を持つ人間だろう。自衛隊から警察、教師にわたり省庁で巣くう人間も含まれる。そして、それらを監視しなければならない立場であった、自民党のアホ先生たちは、あろうことか彼らにおんぶにだっこしてしまった。国が衰退しないわけがないだろう。すべてのことが、考えずに反応で決まる。マシな例では、「前例」により決められる。
世界は、この国だけではなく常に進歩している。それが、この国では時間が止まったかのように旧態依然のシステムで動いているのだ。社会も息苦しく、おかしくなるのが当然だろう。確かに、60数年前の戦争は大変だったと思う。そして、平和で安定した世の中であろうとしたことも理解できる。今の自民党のアホ先生よりもずっと前の世代の人、戦争を体験してきたような人々は、そのことをよくわかっていて、ひたすら善行を積んできたのだった。問題は、それ以降の努力せずに「なった」連中だろうと思う。
素朴に考えれば、選挙に出て当選することも難しいと思うのだが、そういう苦労も無く当選すれば、次にやることと言えばいかにずるをやるか、ということしかないだろう。何かをやるにしても、能力も無いのでやりようがないからだ。官僚という名の公務員にやってもらえば無能でも時間は過ぎて行くわけだ。公務員もバカではないので自己の有利なようにしくみを作るだろう。そうしたことが積み重なり、今のような矛盾だらけで悪い所だらけの世の中が完成してしまった。まさに、完成に等しいほどひどい国になったと思う。
もちろん、私の論点はそこにある。大学を資格取得機関にしてしまったために人の劣化が始まったという説だ。考えなくても資格が得られるのだから、劣化が始まるのは当然だと思うが、本人たちはそうは思っていないだろう。それこそ、「悔しかったら、合格してみろ」だろう。だが、東大へ行くような人間と中学を卒業しただけの人間とどれだけ「実力」が違うだろうか。私は、さほど違わないという意見だ。単に、問題に対する反応時間の差があるだけであり、人間に対する評価の決定的なものにはならないと思っている。
30歳でプログラミングを始めた私にとって、むしろ大卒でありながら、コンピュータも触れない、理解できない人間が存在する方が驚きなのだ。私が「やる気」さえあれば、誰にでも学問はできるとする所以だ。つまり、大学入試に通らない連中は、学力が低く、大学に来ても用がないというような説は完全な誤りではないかということだ。高度な学問といえどもたかだか人間の頭で考えなければどうにもならないものだ。わかりやすい解説とそうでない解説はあるだろうが、理解できないというようなものではないのだ。
事務処理能力と言えばいいのだろうか。要するに税務署の人間がわかりにくい諸表を処理するありさまを想像して欲しい。これを処理する能力と時間をかけて問題を考え解決して行く能力とは別物と考えるべきだと私は思っている。しかし、大学入試というものは一緒くたに扱っている。大学を自由に誰でも行ける研究機関にしない限り、競争が激化するだけだからだ。できないことを無理矢理やっているのが今の大学受験だ。
別に民主党がそんなことを言っているわけではないので、政権交代があったとしても、大学は自由化されないだろうと思う。しかし、時の流れと共にいっこうに改革は進まないことが誰の目にも明らかになってくるだろう。問題に対する「反応のしかた」しか学ばなかった者が現実の問題に対処できるはずがないだろう。これは、東大を卒業しようが個人の意識の問題なのでどうにもならない。むしろ、今後はいかに考えるようにするかを学びながら人を育てる教育をしていくか、ということだろう。
ここで政権交代があって、民主党を中心とする政権ができてもいっこうに暮らしが良くなったと思えなかったら、まず、この国の頭脳から変えていく必要がある。本来ならば、今すぐやるべきなのだが、誰もが、よもや大学がおかしいとは思っていないので変えようがないわけだ。たかだか人間がのやることだ、誰かが天才的で誰かがさっぱり能なしということはない。正解は、誰もがチョボチョボで大きな違いは無いということだと私は思っている。そのことを証明するためにも大学は、高校卒業程度で誰でも行けるし、社会に出た人でもいつでも戻れるようにする。そして、大学は資格を一切出さないことだ。
民主党中心の政権は、そのことを実現するために法律を1本作るだけでスタートできる。「大学は、高校を卒業あるいは、卒業程度の学力を有する者の入学を拒んではいけない。」という法律を作るだけだ。大学は、インターネットを活用してでも講義が聞けるように環境を用意できるようにすることだ。なぜかというと、今この国はそれほど病んでいるからだ。誰もが驚くような変化を自らやらなければ未来が無いのだ。
ルソーの言う「一般意志」というのをタイトルにしてみたが、いまだ正確な意味を知らない。全体の意志、多数の意志というようにぼんやりとらえているだけのことだ。この国では、8月30日にその「一般意志」が示されるかどうかわからない。
「国家」とは、互いに財産や自由、生命を認め合う者同士の共同体であるという考えは、そうだろうなと思う。ただし、カルト政権のように、国家とは、一部の特権階級だけがおいしい思いをするための、「仮の姿」であるという定義も可能なのだろう。その場合、高名なルソーの定義に反しているではないか、と言ってみたところで空しいだけだ。この国では、「実行支配」という現実が優先される。問題は多々あっても、現実にはカルト政権が支配しているのだから、従ってもらう、ということだ。
カルト政権による「年金詐欺」をきっかけにして、ようやくこの国のカルトも解けそうになりつつあるが、まだまだ動機としては弱いように思う。8月30日までには、あっさりカルト政権のポチになっているかもしれない。なぜなら、この国のしくみを作り直すという動機には、まだまだ超えなければならないハードルがいくつもあるような気がするからだ。
第一に、ほとんどの人は、逮捕された経験など無い。国家がいきなり個人を逮捕することなど無いと思っている。しかし、恐ろしいもので、国家から見れば、個人の命などあほらしいほど軽い。60数年前の戦争では、原子爆弾による被害の甚大さよりも、「国家体制」が守れるかどうかを小田原評定していたという事実からそれを理解できる。個人の生命を奪うなど国家から見れば、蚊を殺すことよりもたやすいことなのだ。「専門家」に任せておけば大丈夫という発想は危険だ。そのつけは、いつか自分がわけもわからず逮捕されるという形で現れる。もちろん、そうなってからでは遅いのだ。
第二に、ほとんどの人はカルト政権の仕打ちに対してそんなに怒らない。「年金詐欺」に対しては、厚労省の年金課の連中は「死刑」に値すると私などは思うが、多くの人は許すのではないだろうか。もちろん、許さないならば、カルト政権をとにかくつぶすしかないのだ。この点について、「迷い」などは無いと思うのだが。
第三に、がんばれば良くなると考えている人がほとんどだろうと思う。良くなると私も思うが、それがこれまでのことなのであった。つまり、良くなるとは、特定の人だけであり、大部分の人は生涯、貧乏で苦しく、非業の死を遂げるということ。自分で未来を選択しなければ、少なくとも自分にとって良い未来などは無い。いい世の中は、いい会社組織とも似ている。努力に応じた報酬があれば、それなりに満足するものだ。しかし、カルト政権がこのまま続けば、努力に応じた報酬はどんどん減るばかりだ。
第四に、この国では古くから誰かが天下をとればいいのではないかと思いこまれている。こういう考えがあったからこそ、自民党というカルトな政権が独裁を続けられたのではないか。それに、石橋湛山という私も私淑する思想家が籍を置いていた時代もあったくらいで、実態も本当に自由と民主的な気風があったと想像できる。しかし、恐らくは、今騒がれている「世襲」の繰り返しにより人間の「劣化」が始まった。こうした事態は、民主党が政権をとっても必ず起こるので、知恵として「交換」可能な政治システムを作っておくことがこの地球で長生きできる秘訣ではないかと思う。「天下」は、誰かがとるのではなくて、決める我々にあることを忘れてはいけない。この国が、共同体と考えるならば、なおさらだ。今さら戦国時代には戻りたくないものだ。
第五に、無関心。投票率が90パーセントを超えてもいいくらい、今はこの国のピンチにある。しかし、カルト政権の国民飼い慣らし政策で国民は政治に無関心に育てられている。マスゴミも重要なことを一切報道しないシステムでずっと慣らされている。これでは、政治に関心を持つことは難しいし、カルト政権がどんな無茶をやっても怒れないわけだ。それどころか、消費税をあげてください、などとほざくバカもいるくらいだ。ヨーロッパ型の生活必需品には消費税を課さないというやり方も一度やってみる価値はあると思う。現実には、これがベストではないかと私は感じている。低所得者には、生活保護の規定があるとされるが、現実には生活保護を受けさせまいとする公務員がいたり、生活保護者から詐欺的にお金をとろうという業者もいるのだから。お金が無くとも明るく生きられる社会がいいのではないか。
(つづく)
「国家」とは、互いに財産や自由、生命を認め合う者同士の共同体であるという考えは、そうだろうなと思う。ただし、カルト政権のように、国家とは、一部の特権階級だけがおいしい思いをするための、「仮の姿」であるという定義も可能なのだろう。その場合、高名なルソーの定義に反しているではないか、と言ってみたところで空しいだけだ。この国では、「実行支配」という現実が優先される。問題は多々あっても、現実にはカルト政権が支配しているのだから、従ってもらう、ということだ。
カルト政権による「年金詐欺」をきっかけにして、ようやくこの国のカルトも解けそうになりつつあるが、まだまだ動機としては弱いように思う。8月30日までには、あっさりカルト政権のポチになっているかもしれない。なぜなら、この国のしくみを作り直すという動機には、まだまだ超えなければならないハードルがいくつもあるような気がするからだ。
第一に、ほとんどの人は、逮捕された経験など無い。国家がいきなり個人を逮捕することなど無いと思っている。しかし、恐ろしいもので、国家から見れば、個人の命などあほらしいほど軽い。60数年前の戦争では、原子爆弾による被害の甚大さよりも、「国家体制」が守れるかどうかを小田原評定していたという事実からそれを理解できる。個人の生命を奪うなど国家から見れば、蚊を殺すことよりもたやすいことなのだ。「専門家」に任せておけば大丈夫という発想は危険だ。そのつけは、いつか自分がわけもわからず逮捕されるという形で現れる。もちろん、そうなってからでは遅いのだ。
第二に、ほとんどの人はカルト政権の仕打ちに対してそんなに怒らない。「年金詐欺」に対しては、厚労省の年金課の連中は「死刑」に値すると私などは思うが、多くの人は許すのではないだろうか。もちろん、許さないならば、カルト政権をとにかくつぶすしかないのだ。この点について、「迷い」などは無いと思うのだが。
第三に、がんばれば良くなると考えている人がほとんどだろうと思う。良くなると私も思うが、それがこれまでのことなのであった。つまり、良くなるとは、特定の人だけであり、大部分の人は生涯、貧乏で苦しく、非業の死を遂げるということ。自分で未来を選択しなければ、少なくとも自分にとって良い未来などは無い。いい世の中は、いい会社組織とも似ている。努力に応じた報酬があれば、それなりに満足するものだ。しかし、カルト政権がこのまま続けば、努力に応じた報酬はどんどん減るばかりだ。
第四に、この国では古くから誰かが天下をとればいいのではないかと思いこまれている。こういう考えがあったからこそ、自民党というカルトな政権が独裁を続けられたのではないか。それに、石橋湛山という私も私淑する思想家が籍を置いていた時代もあったくらいで、実態も本当に自由と民主的な気風があったと想像できる。しかし、恐らくは、今騒がれている「世襲」の繰り返しにより人間の「劣化」が始まった。こうした事態は、民主党が政権をとっても必ず起こるので、知恵として「交換」可能な政治システムを作っておくことがこの地球で長生きできる秘訣ではないかと思う。「天下」は、誰かがとるのではなくて、決める我々にあることを忘れてはいけない。この国が、共同体と考えるならば、なおさらだ。今さら戦国時代には戻りたくないものだ。
第五に、無関心。投票率が90パーセントを超えてもいいくらい、今はこの国のピンチにある。しかし、カルト政権の国民飼い慣らし政策で国民は政治に無関心に育てられている。マスゴミも重要なことを一切報道しないシステムでずっと慣らされている。これでは、政治に関心を持つことは難しいし、カルト政権がどんな無茶をやっても怒れないわけだ。それどころか、消費税をあげてください、などとほざくバカもいるくらいだ。ヨーロッパ型の生活必需品には消費税を課さないというやり方も一度やってみる価値はあると思う。現実には、これがベストではないかと私は感じている。低所得者には、生活保護の規定があるとされるが、現実には生活保護を受けさせまいとする公務員がいたり、生活保護者から詐欺的にお金をとろうという業者もいるのだから。お金が無くとも明るく生きられる社会がいいのではないか。
(つづく)
8月末の選挙まで、十分な時間があるのでカルト政権はどんな罠を仕掛けてくるのだろうか。あまりにもミエミエのものでは反発をくらうので、この国に合った方法でやってくるのだろう。
それは、これまでと同じでメディアを独占することだ。メディアも本質として、カルト政権のままでいて欲しいようだから、ずっとカルト政権の都合を放送し続けるのだろうと思う。まるで、この国の「支配者」は、カルト政権であるかのように、だ。その結果、いつの時代もカルト政権がいてこの国を守ってくれる、などという幻想にとらわれてくるのではなかろうか。そして、投票には「やっぱり、自民党」となれば、カルト政権の勝利だ。アホウ太郎も続投が決まり、4年を待たずしてこの国もろとも沈没してしまう、というのが、最悪のシナリオだ。
メディアは、アホな放送をやめてカルト政権がなぜ「年金詐欺」を放置したのか、舛添はなぜ何もできなかったのかを解説しなければならないのだが、能力的にも無理だろう。多くの人が期待するのは、年金詐欺の解決なので、これだけでもいいかもしれない。そして、カルト政権にそれができないとなれば、退いてもらうしかないわけだ。だからこそ、余計に放送禁止となるのだろう。
消費税は、どうだろうか。消費税がこの国に導入されて以来、税率が下がったということはないのだが、消費税は、下げることもできる税なのだそうだ。だから、国民の多くが納得する形ならば一時的に上げることも可能だ。ただ、生活必需品にはかけないということができると思うのでこれとセットでなければ、反発は激しいものになるだろう。特定のものには税金をかけないというのは、生活を守るために重要だが、この国では事務的な都合で後回しにされるそうだ。消費税で飢える人が出ても、「これだけ、税収が見込める」という計算ができることを優先させる、ということだ。
カルト政権の時代には、あまりにも不可解な事件が多かった。殺人から冤罪事件まで。民主党は、かつてのチリや南アフリカのような「真実と和解の委員会」というようなものを設けて、何が起こったのかを解明することだ。カルト政権のままでは絶対に解明されない問題だ。普通に生きている人間が事件に巻き込まれて殺される、あるいは、痴漢犯人にされてしまう、こんな世の中でいいはずがないのだ。
私は、ずっと学生運動とは何だったのかということに興味を持っている。一種の世直し運動だと思うのだが、実態は本を読んだくらいではわからない。一度、仕事にかこつけて山本義隆氏と連絡をとろうとしたが、会ってももらえなかった。学生運動の実体験者は、何も語ろうとしないようだ。私は、浪人時代から大学の自由化を唱えているが、もしかすると学生運動というのは、それに似たようなものなのかもしれない。
だが、国家としては、あまり庶民に鋭敏になって欲しくないのではないか。やはり、「民はよらしむべし、知らしむべからず」なのだろうと思う。今の大学のあり方は、ある意味、国家の要請に沿うものなのだろう。しかし、あまりにバカばかりだと困るので調整はしてきたことだろう。残念ながら、その目論見は失敗して、本当にバカばかりになったのが今なのだと思う。
新しい政権は、バカの量産とおさらばするのだろうか。大学をどうするのかという点を見ることで新政権の性格がわかると思う。本当にバカとおさらばするのならば、私も忙しくなる。仕事をしつつでも大学へ行ってみようという色気が出てくるからだ。大学が自由ならば、さすがの私も講義を聞いたり、研究したりもできるようになるだろう。私の言う大学の自由化とは、その施設の開放も含んでいる。学部の図書館、総合図書館なども「誰でも」自由に使えるというものだ。税金で運営している大学なら、当たり前なのだが、今は当たり前ではない。当たり前のことが実現する世の中であって欲しい。
それは、これまでと同じでメディアを独占することだ。メディアも本質として、カルト政権のままでいて欲しいようだから、ずっとカルト政権の都合を放送し続けるのだろうと思う。まるで、この国の「支配者」は、カルト政権であるかのように、だ。その結果、いつの時代もカルト政権がいてこの国を守ってくれる、などという幻想にとらわれてくるのではなかろうか。そして、投票には「やっぱり、自民党」となれば、カルト政権の勝利だ。アホウ太郎も続投が決まり、4年を待たずしてこの国もろとも沈没してしまう、というのが、最悪のシナリオだ。
メディアは、アホな放送をやめてカルト政権がなぜ「年金詐欺」を放置したのか、舛添はなぜ何もできなかったのかを解説しなければならないのだが、能力的にも無理だろう。多くの人が期待するのは、年金詐欺の解決なので、これだけでもいいかもしれない。そして、カルト政権にそれができないとなれば、退いてもらうしかないわけだ。だからこそ、余計に放送禁止となるのだろう。
消費税は、どうだろうか。消費税がこの国に導入されて以来、税率が下がったということはないのだが、消費税は、下げることもできる税なのだそうだ。だから、国民の多くが納得する形ならば一時的に上げることも可能だ。ただ、生活必需品にはかけないということができると思うのでこれとセットでなければ、反発は激しいものになるだろう。特定のものには税金をかけないというのは、生活を守るために重要だが、この国では事務的な都合で後回しにされるそうだ。消費税で飢える人が出ても、「これだけ、税収が見込める」という計算ができることを優先させる、ということだ。
カルト政権の時代には、あまりにも不可解な事件が多かった。殺人から冤罪事件まで。民主党は、かつてのチリや南アフリカのような「真実と和解の委員会」というようなものを設けて、何が起こったのかを解明することだ。カルト政権のままでは絶対に解明されない問題だ。普通に生きている人間が事件に巻き込まれて殺される、あるいは、痴漢犯人にされてしまう、こんな世の中でいいはずがないのだ。
私は、ずっと学生運動とは何だったのかということに興味を持っている。一種の世直し運動だと思うのだが、実態は本を読んだくらいではわからない。一度、仕事にかこつけて山本義隆氏と連絡をとろうとしたが、会ってももらえなかった。学生運動の実体験者は、何も語ろうとしないようだ。私は、浪人時代から大学の自由化を唱えているが、もしかすると学生運動というのは、それに似たようなものなのかもしれない。
だが、国家としては、あまり庶民に鋭敏になって欲しくないのではないか。やはり、「民はよらしむべし、知らしむべからず」なのだろうと思う。今の大学のあり方は、ある意味、国家の要請に沿うものなのだろう。しかし、あまりにバカばかりだと困るので調整はしてきたことだろう。残念ながら、その目論見は失敗して、本当にバカばかりになったのが今なのだと思う。
新しい政権は、バカの量産とおさらばするのだろうか。大学をどうするのかという点を見ることで新政権の性格がわかると思う。本当にバカとおさらばするのならば、私も忙しくなる。仕事をしつつでも大学へ行ってみようという色気が出てくるからだ。大学が自由ならば、さすがの私も講義を聞いたり、研究したりもできるようになるだろう。私の言う大学の自由化とは、その施設の開放も含んでいる。学部の図書館、総合図書館なども「誰でも」自由に使えるというものだ。税金で運営している大学なら、当たり前なのだが、今は当たり前ではない。当たり前のことが実現する世の中であって欲しい。